(この記事は管理人の主観で書いています。正しくない可能性があります。ご了承の上、お読み下さい。)
もう15年ほど前になりますが『この指とまれ』というサイトに登録していました。まだSNSが発展する前の事です。
自分の出身校を登録すると、かつてのクラスメイトを見つけられるというサービスでした。
ですが、Facebookなどと違い、登録する確率が低く、昔の友人とは会えませんでした。
Facebookを使うようになってからは、小学校時代の友人まで見つけられました。
私の母校は、少し・・多分かなり変わっている学校で、様々な人物がいます。
同級生でも、バンカーもいれば学者もいれば、変わったところではニュージーランドで農家になった人もいました。
その学校では、中等部でも高等部でも成績が発表され、学期末には優秀者は表彰されました。
自分は世界史や地理では表彰されましたが、英語では夏休みも補習の連続で『得手不得手が極端すぎる』といつも怒られていました・・。
また課題クリアをすれば、どんどん先に進め、1年分を終えれば先生と共にクラスメイトを指導補助するシステムもありました。
私には子供がいませんので、今の教育現場がどんな感じなのか知りません。
よく『今の運動会はかけっこで、手をつないでゴールする』という話を聞きましたが、本当なのでしょうか?
『皆を平等に・・』という考えが根底にあるのかもしれません。
しかし、どうしても個人個人能力差と言うものはあるはずです。むしろその現実を受け入れられないのは親ではないかと思います。
我が子が落ちこぼれるのは不憫だ・・と言うのもわかるのですが、その分足が速いかもしれないし、工作が得意かもしれません。
成績が悪く不器用でも、明るい性格で皆に好かれて、生徒会や文化祭で活躍できる人もいるでしょう。
人が嫌いで学校に行きたくない子がいても、パソコンがあり、プログラムを習得すれば、優れたプログラマーやゲームクリエイターになるも知れません。
私個人は、全員が平均的に無難に成長するより、学科別に成績順をはっきりさせ、適性を見る方に注力すべきではないかと思います。
平均的成績を実現できても、社会に出れば『これといって特徴の無い・・武器の無い人物』になる可能性はあります。
それよりも、不得意が多いとしても一つの分野に突出した人物の方が、社会では勝ち残れるような気がします。
落ちこぼれる子供も確実に出ますが、それは選択肢が見えていないからではないかと思います。
どんな人でも没頭すれば、食事も忘れ1日集中できる事と言うものはあると思います。
それが研究なのか、物書きなのか、漫画なのか、プログラムなのかはわかりませんが、そういう選択肢を並べてあげるのが指導者や親御さんなのではないかと思います。
好きなものさえ見つければ、放っておいても学びたい事を学ぶと思います。
あとは子供がどれを選んでもいいように、選択肢をひとつでも多く提示できる社会をどうやって作るのか気がします。
私が最も付き合いのあるネット企業は、社内の公用語を英語にしました。
実際に所属している人たちに聞くと、英語で会議を行い苦労しているそうですし、それを嫌って転職する人も少なくないそうです。
外国人労働者も増えているので、英語にするメリットはあるとは思いますが、デメリットも多いと思います。
社会に出てから公用語としての英語を求められるなら、成績上位者が進む大学を減らし、その分エリート育成に注力すべきではないかと思います。
大学入学試験や授業を英語化するという手もあると思います。
大学はエリート育成の場として、分母を減らし、その削減分を奨学金として活用し、親の収入による所得階層の固定化を防げばいいのではないでしょうか。
現在、少子化が進み、生徒数減少に悩む大学の中には、海外から留学生・・実態としては出稼ぎ外国人を受け入れ、実態調査すれば行方不明が多数の大学もありました。
そういった大学に進むと言う事自体が目的になっている大学は、銀行のようにどんどん合併し、その数を減らし、難関にすべきと思います。
入試も暗記の求められるものから、考える能力があるか判別できるものに変更すべきでしょう。
もちろん、これは子供を持たない人間の机上の空論かもしれませんが・・・。
|